生薬のはなし
鹿茸(ロクジョウ)その一
鹿茸ってなに
最近、冊子体の国語辞典なんていうものは、電子辞書やインターネットの普及で、使う人は少なくなりました。電子辞書やインターネットも同じものを載せているものもありますが、何故か紙に印刷されている方が、信頼性があるような気するのは私だけではないような気もしますが、いかがでしょうか。と言ったわけで重い『広辞苑』を紐解いてみますと、ロクジョウというのは ろく-じょう 【鹿茸】鹿の袋角。補精強壮薬とする。徒然草「-を鼻にあてて嗅ぐべからず。小さき虫ありて、鼻より入りて脳を食むといへり」なんて書いてあったりします。袋角を知っているということが前提になっています。でも、池袋は知っているけれど袋角は知らないという人のほうが多いわけです。そこで袋角を引くと次のように書いてあります。ふくろ-づの【袋角】(形が袋に似ているから)シカ科の動物の角で、毎年春に脱落後の再生したての時期のものを指す。骨の芯が裸出せず、皮膚をかぶって柔らかな状態の角。鹿茸。となっています。再生したてといってもどの位の時期を指すのか、骨の芯などという表現は角と骨が同じということになり、どうなんだろうという感想もありますが、ある程度の状況把握はできます。とは言え実際にシカの角が落ちて、また新たに角が生えてくるところをご覧になった方でないと、形が袋に似ているからといっても、紙袋?ポリ袋?きんちゃく袋では形も違いますし、いったいどんな袋を指しているのか、分かったような分からない説明ではあります。
成長を始めて間もない鹿茸(撮影:中川昇)
ともあれ雄のシカには角があります。秋になると子孫を残すため雌を巡って角突き合わせるための角です。トナカイは雌にも角があるそうですが、一般的に角を持つのは雄ジカだけです。このシカの角というのはウシやヒツジやカモシカの角と違い毎年生え替わるというのが特徴です。春、雄ジカの角はその根元というか付け根からポロッと落ちます。二、三日すると角の落ちたところから小さなコブのようなものが生えてきます。そのコブ様のものの形と伸びるスピードがあたかもキノコのようだということからシカ(鹿)から生えるキノコ(茸)、鹿茸と呼ばれるようになったと思われます。
夏、ほぼ成長しきった鹿茸(撮影:中川昇)
この新しく生えてきたキノコのようなものを袋角といいます。袋角の成長速度は極めて早く、ニホンジカの成獣では生え始めから2〜3ヵ月で70センチメートル位になるといわれています。この袋角の状態で切り落としてしまうのが鹿茸です。袋角としての成長が終わると、柔らかかった袋角は角化が始まり、だんだん堅くなります。秋には突かれれば危険というレベルまで堅くなります。観光客に危害を加えてはいけないとうことから奈良公園などでは寄ってたかって取り押さえ、これを切り落としてしまいます。これが鹿角です。まあ例えは悪いかもしれませんが、枝豆と大豆のようなもので、同じものでも採取時期によって呼び名が違うわけです。鹿茸はシカの若角とも呼ばれ、単なるというか普通のシカの角とは区別されています。枝豆と大豆の成分はそんなに違いはないと思いますが、鹿茸と鹿角は成分的に違いがあります。違いがあるといっても時間的な経緯で成分に変化が出てくるので、明確な区分があるわけではありませんが、若い角である鹿茸には有機分が多く、角になってしまえば成分的には有機分が少なくなり骨に近くなってしまうわけです。
ともあれ袋角を見たければ夏になる前に動物園に行ってシカを観察するか、You Tubeで鹿の袋角を探してみることです。インターネットは信頼性の面で少々劣るところもありますが、それらを上回る利便性があり、百聞は一見にしかずを簡単に具現化してくれます。
秋、鹿茸の外皮がとれて立派な角となる
(撮影:中川 昇)
(鹿の写真はBORG使用、奈良公園にて)
鹿茸って昔から使われていたの
鹿茸が角化していない袋角という大まかなご理解を頂いたところで、鹿茸の歴史的経緯について少々説明いたします。中国最古の薬物書である『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』に収載されていることから、後漢の時代には薬物として利用されていたことがわかります。それからもっと古い時代、秦の始皇帝以前に作られた『山海経(せんがいきょう)』という書物がありますが、ここに六畜として鹿が載っていて、食用に供されていたと記されているところをみると、鹿茸は多分悠久の昔から使われていたと考えるのが適切ではないでしょうか。秦の始皇帝以前なんていいますと、西暦では紀元前三百年以上前の話ですから、今から二千三百年以上も前のことになります。
我が国でも古くから利用されていたことが『日本書紀』の記載から分かります。西暦六百十一年(推古天皇十九)年、陰暦の五月五日、今の暦で言えば六月の中旬から下旬にかけて本格的な夏も間近の季節です。宇陀(うだ)の菟田野(うだの)のということですから今の奈良県で薬狩り(くすりがり)を行ったと『日本書紀(にほんしょき)』に記されています。この薬狩りの薬とは鹿茸のことだったようで、野山の薬草を採るのは後の時代のことといわれています。この他にも平安時代中期に成立した法令集である『延喜式(えんぎしき)』の巻三十七には、当時の日本各地から朝廷に納められた物品リストが「諸国進年料雑薬」として残っていて、この中に今の岐阜県に当たる美濃国から鹿茸が献上されたことが記載されています。